硫黄島地図
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 硫黄島の娯楽! (海上自衛隊硫黄島案内より抜粋)
擂鉢山へ
戦後、米軍が港湾施設を作る目的で、鉄筋コンクリート船を沈めたが、海岸線の変化の激しさに計画を断念。
海面下にあった船はその後の隆起現象で半分以上地上に出ています。
航空機燃料を運ぶ航空自衛隊のローリです。現在ほとんど内地では見られないボンネット形式のトラクタです。東京ではNOx法で走れません。黒い渡哲也の様な自衛官が補給しておられました。
ここ3週間雨が無くて、硫黄島は大変乾燥してるらしく、飲料水も少なめになってるらしいです。
暑い中大変ご苦労様です。

タンクローリに面白いもの??を見つけてしまいました!画面をクリック!!(笑)
硫黄島の海上、航空自衛隊基地。
なだらかな砂利道を登ると、自衛隊のタンク施設があり、そこから擂鉢山への道がまっすぐ伸びています。青い空にまっすぐな道、遠くに陽炎です・・・

自転車の私は既に汗だくです。

擂鉢山へ登ってみる方は、この道をクリックしてください。
暫定版
‘00、‘01年度硫黄島墓参船参加記
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いかがでしたでしょうか?地図等を入れておりませんので、全体像をつかみにくいと思われます。近々更新させて戴きます。


父島に帰る途中に見る事ができた北硫黄島です。かつてはここにも人が暮らしていたのですが、今は無人島になってます。

‘01年度の墓参は天候に恵まれ二日ともいい天気だったのですが、‘00年度は二日目に強風に見舞われ、おがさわら丸の沖停泊に支障が出るためもう一泊する所、二日目の朝に硫黄島を出帆しました。
おがさわら丸は硫黄島の周りを周回し、弔いの汽笛鳴る中、デッキでは遺族が涙ながら花や酒、御札などを海になげいれてました。おとーちゃん、おじーさーんと叫ぶ方も。

自衛隊基地の中には、海軍第27航空隊司令部跡が遺品資料館になっていました。これは九七式戦車の砲塔でしょうか?
自衛隊の基地に入り、宿舎の脇のきれいに舗装された坂を登ってゆくと、だだっ広い滑走路にでます。自衛隊機が羽を休めてました。
アメリカのB29が日本への空爆中継基地を求め、この平らな島を巡り熾烈な戦いが繰り広げられたのです。自衛隊のPXで缶ビール220円を買ってちょっと休憩です。
自衛隊基地の前には鹿島建設の建物があります。
島を走る車は自衛隊と、ここの車位しかありません。
しかし思ったより多くの車とすれ違います。手を上げると皆親切に乗せてくれます。私もお世話になりました。
自衛隊までの道を歩くとあちこちに穴が開いています。石碑には三〇九機関銃中隊壕と書いてあります。それにしても空が青い。昔ここで何があったんだろう・・・・
小高い丘の上には、建設現場がありました。道からすぐのところに、地下壕が口を開けてます。
現場事務所の脇にここの周辺から出たらしき人骨とアメリカ軍の物と思われるぼろぼろの軍服や水筒が並べてありました。人骨の前には水と線香が供えてありました。英霊に合掌。
海岸を少し歩き、砂利道をのぼって行きます。空は青く、気分はよいのですが、かなり暑く、硫黄島と呼ばれるだけあって本当に硫黄のにおいが鼻を突きます。
沖にはここまで乗ってきたおがさわら丸が静かに待っています。船の墓場でもある島を横に何をおもうのでしょう。
沈潜の一つから擂鉢山を望みます。米軍の砲撃により、山の形が変わったと聞きます。星条旗を立てるシーンはあまりにも有名です。
昨夜父島を出たおがさわら丸は、明け方には既に硫黄島沖に停泊していました。夜がうっすらと明けてくると、平らな島と黒い砂浜、これが硫黄島か・・・と、海岸を見ると幾つもの沈船が・・・・無言で何かを伝えてきます・・・
硫黄島には港が無いので、父島より持ってきた、”たけじい”の南星丸の通船によって硫黄島に渡ります。

硫黄島は小笠原諸島より南西約200kmにある硫黄列島の中の主島で、太平洋戦争では日米の激戦地でありました。
現在は,東京都の行政下に置かれ、海上、航空自衛隊が駐屯と建設業者意外は入島を許されない島になっています。

しかし、年に一度だけ、硫黄島で亡くなった方の遺族には、慰霊に硫黄島へわたる機会が与えられます。
定期便の無い硫黄島へは、父島行きのおがさわら丸で向かいます。いつも通り昼前に父島に着き、その日の21:00に父島を出港し、翌朝早くに硫黄島沖にアンカーを打ちます。おがさわら丸の時刻表に載ってない裏ダイヤの一つです。
墓参に参加できるのは遺族と関係者、取材陣、父島に残る在住島民、抽選で選ばれた現島民、小笠原の中学生などののみで、墓参団はマイクロバスで廻るのですが、私は‘01の墓参の際、おが丸を降り、自転車で擂鉢山に行ってきました。

おがさわら丸の2泊3日の硫黄島墓参の旅は、東京に向けて出港する朝に父島へ帰ってきます。
日米両軍あわせ3万人近くの戦没者を出した硫黄島を記憶の中に少しでも残していただければ幸いです。

硫黄島