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沿革

硫黄島は1543年スペイン人により発見され、その後、英国のキャプテン・クックの部下ゴアが、太平洋探検隊(1784年)この島を認め、サルファー・アイランド(硫黄島)と命名している。そして、無住所無所属の島として放置されていたが、1891年(明治24年)日本領土に編入、硫黄島として命名し小笠原庁管轄とした。


住民は、1876年(明治9年)には71人が、1943年(昭和18年)には192戸1018人が住んでいて、産業としては、初めは漁業が主体であったと思われるが、その後硫黄・燐鉱などの採鉱、砂糖きび、薬用植物などが栽培され、これらを取り扱う会社(硫黄島産業KK)も設立されていた。

本土との交通は、年24回の東京〜小笠原諸島間の定期船の一部が硫黄島まで伸びていた。


硫黄島の防備

1933年(昭和8年)に海軍は、先頭機飛行場(南北800m×200m)を仮設、以後逐次増強され飛行場は千鳥飛行場、元山飛行場および来た飛行場が造られた。

硫黄島攻防戦時には、陸軍約13700名、海軍約7500名、計約21200名の将兵が配備され、全長約18kmの及ぶ地下壕を構築、長期持久戦の準備が行われた。


硫黄島攻防戦

昭和20年2月16日から3日間、海軍・空軍による熾烈な艦砲射撃及び豪雨のような爆撃が加えられ、同2月19日B−29の大編隊による空襲と硫黄島沖に集結した大艦隊による一斉射撃が全島をおおった。
その間130隻の上陸用舟艇が海岸に向け一斉に突進し、午前9時頃その第一波が南海岸に上陸した。

硫黄島守備隊は、小笠原兵団長栗林中将の指揮の下見事な持久戦を展開し、米軍上陸部隊に多大の損害を与えたが、そのほとんどは玉砕し、同3月26日日本軍の組織的な戦闘は終わった。



両軍の損害



    戦    死      戦   傷
 日本軍     19900人   1033人(生還者)
  米軍     6821人    21865人



                            
硫黄島の歴史